「外交政策決定要因」5カ国国際会議

第十一章 日本の援助政策決定要因

PHP総合研究所
橋本光平

要旨

我が国の援助政策の歴史的変遷

我が国の援助政策の歴史を振り返るにあたっては、戦後の我が国及び西側諸国の経済状況と、援助機関の整備状況、さらには国連開発の10年構想に沿った諸外国の援助政策の動向に着目しなければならない。

復興期−賠償と被援助国の時代(45年〜57年)

50年代の日本において、最大の輸出振興策は、実は賠償という枠内で行われた。51年、サンフランシスコ平和条約第14条で日本国に科された賠償は、戦後復興期の我が国に経済的負担を強いた反面、東南アジア向け輸出の振興というプラスの役目をも果たすことになった。援助の分野で80年代まで積極的に行われた「ひも付き」援助も、基本的発想は戦後の賠償と同じ輸出振興という枠内で十分に説明が付く。すなわち、戦後賠償にからむ輸出振興のシステムは、80年代までの日本の対外援助の基本となった。

援助開始初期(58年〜64年)

50年代後半、開発途上諸国に対する援助を開始したソ連及び東欧諸国に対抗するため、米国は60年、英、仏、西独、カナダ、イタリア、日本等とともに開発援助グループ(DAG)(翌61年DACに改称。日本は63年参加)を設立。自由主義先進国全体で援助活動を押し進める体制を整えた。我が国の援助の主翼を担うことになる政府直接借款(円借款)が開始されることになった裏には、こうした国際情勢の変化が影響していた。

円借款の幕開けと援助システムの確立

58年から始まる我が国の円借款は日本輸出入銀行が担当したが、DAC参加への期待から、日本政府は国内の援助組織の立ち上げを模索。59年、自民党が対外経済協力特別委員会を設け、東南アジア開発基金に代わる「対外経済特別基金」の設立を呼びかけた。一方、外務省は同じ年に、「経済協力基金構想」を発表。通産省も同時に「海外経済協力株式会社案」を作成した。これらの構想は翌60年末に海外経済協力基金法として公布され、最終的に経済企画庁が監督官庁、外務、大蔵、通産の3省が協議官庁となる、現在の円借款の4省庁体制が確立した。

 日本は技術協力の分野で54年コロンボプランに加盟するが、同年、南洋協会、アジア経済協力会、アジア産業協力会等の6つの団体がアジア協会として統合され、さらに62年の「海外技術協力事業団」(OTCA、後のJICA)の開設によって、技術協力部門一元化に成功する。他方、同様な資金協力諸団体を統合して経済援助部門での一元化に成功したのが61年に設立された海外協力基金(OECF)であった。

 つまり、日本の初期の援助政策が決定された当初、国内外には複数のファクターが存在したということができる。つまり、対外的には(1)従来一国で西側の戦略援助を請け負ってきたアメリカ側の経済状態の悪化、(2)それによって増大した西側工業国に対する責務分担圧力、(3)DACへの編入と、日本に対する援助拡大要求、以上の三点であり、対内的には(1)「東南アジア開発基金」及び「対外経済特別基金」構想を提案した岸首相及び自民党の対外経済協力特別委員会、(2)「経済協力基金構想」を発表した外務省、(3)「海外経済協力株式会社案」を掲げた通産省、(4)日本初の援助機関として50年に設立された日本輸出入銀行を抱える大蔵省、そして(5)技術協力、経済協力それぞれの分野で多元的に存在した諸機関である。これらの国外、国内の様々なアクターによって、現在の日本の援助システムが形成されていったことになる。これら日本の援助政策に関わる内的なアクターは、現在まで基本的に変化が無いと言ってよい。

初期の援助政策決定要因

 日本の援助政策は、60年代から80年代全般にかけて、常に外の圧力に敏感に反応した結果であると見る事が出来る。国連開発の10年構想に始まる西側先進諸国の援助体制の中に組み込まれた日本は、特にオイルショック以後の世界経済の構造的変化に対応すべく対応を迫られることになる。

 67年、GATTケネディラウンドにおいて途上国の食糧不足緩和のための食糧援助規約が成立すると、日本も翌68年にKR援助を開始。さらに、多国間援助の分野では、66年アジア開発銀行(ADB)が設立されるが、日本はアメリカと並ぶ最大の拠出国としてその運営に積極的に協力していくこととなる。つまり、南北問題解消のための経済協力という世界的風潮と、日本の経済成長という二つのファクターが60年代の日本の経済援助政策決定の要因となっている。

ここで注目に値するのが、食糧増産援助が開始された76年、日本はフィリピンへの支払をもって賠償を終了していることである。つまり、KR援助及び食料増産援助を含む無償資金協力は、その初期において、明らかに賠償のシステムを踏襲しており、無償資金協力の実行機関も、実態は賠償に絡む諸団体が中心となっていたという点である。

ちなみに技術協力面で、機構の刷新が図られたのもこのころで、当時、海外貿易開発協会(通産省所管)や海外農業開発財団(農林省所管)を母体に独自の技術協力を進めようとしていた通産、農林両省と外務省との間で様々な折衝が重ねられた結果、74年、海外技術協力事業団と海外移住事業団が合併して国際協力事業団(JICA)が発足するが、技術協力の一元化における過程においても、「海外輸出振興」の一形態としての賠償をサポートしたシステムが、かなりの程度残されたという点が、80年代の、主にマスコミによる避難の的として浮かび上がってくる。

60年代の日本の援助政策が、すべて外的圧力を反映したものであるという見方は、ある意味で不十分である。実際64年に発足した佐藤政権は、65年に台湾との間で経済協力協定を、同じく韓国との間で経済協力協定を締結し、経済協力を梃としたアジア外交を推進した事実はあるが、全体から見ると、やはり我が国の初期の援助政策は、援助を基軸とする世界システムを構築するという理想論を掲げた周囲の流れに沿って決定されたものであることは確かだといえよう。

70年代の変革

 70年代の2度にわたる石油危機により、先進諸国を初めとして世界経済全体が打撃を受けたなか、日本は石油危機を克服し順調な経済運営を見せ、必然的に日本の援助に対する期待が膨らむ。この様な外部の期待に応える形で、日本の援助額の大幅増額及び援助の質の向上が図られる。77年に策定されたわが国初めてのODA中期計画には、3年間でODA実績を倍増する計画が盛り込まれ、以後第2次中期計画(81年−85年)、第3次中期計画(86年−92年)、さらに98年まで続く第5次中期目標のもとでも、ODA予算の増額が達成されたわけである。つまり、60年代に引き続き、日本の経済援助政策は、黒字還流と円の切り上げを要求する外圧の中で決定されていったということが出来よう。

冷戦後の援助政策

一方、80年代には、以前とは違った要因が見え隠れするようになる。第一に、世界のトップドナーとなった日本のODAに対し、その質の面での変革を要求する声が、国内外のマスコミ、NGOなどによって上がるようになったこと。第二に、特に湾岸戦争以後、日本の外交姿勢の欠如を指摘する声が国内から上がり、いわゆる援助の外交的側面をより明確にする必要性が出てきたことである。

特に「ひも付き援助(タイド)援助」の割合の高さと日本企業の受注率の高さが問題視され、日本政府は、これらに批判に応える形で、特に有償援助の実質的アンタイ化を推し進めた。

この様な急激な援助政策の変更を可能にした、もう一つの要因は、特にプラザ合意以降に顕著になる日本の「黒字減らし」に対する圧力であった。貿易不均衡に対する批判のなかで、輸出振興型の経済援助を推し進めて行くという選択肢は、とりたくてもとれない政策として事実上消滅した。さらには、80年代になると開発途上国への資金の流れの大部分は民間資本によるものとなり、ODAの比率は、PFを含めた資金フロー全体の4割に満たないという状況が出てくる。こうなると、有力な企業は、受注率の低い援助に期待するよりも、その時間を自社のプロジェクトに傾けた方が効率が上がるという観点から、援助に関係する部署の規模は縮小傾向に向かった。つまり、80年代後半から90年代にかけて、援助の目的は、「輸出振興策の一部」という従来の位置づけからかなり遠ざかっていったわけである。

ここで出てくるのが地球的規模の問題への取り組みと、援助の外交的側面の重視という2つの新しい課題であった。

地球的規模の問題への取り組み

90年代にはいると、開発援助と環境破壊の問題が浮かび上がる。この論調は、主にNGO諸団体から出された。対する日本政府は、批判に応える形でODAの一部に1、000億円の「地球環境問題対策費」を盛り込むことや、環境関連ODAを実施することを決定。さらに援助の実行機関である国際協力事業団(JICA)及び海外経済協力基金(OECF)が、「環境配慮のためのガイドライン」を設定して独自の環境モニタリングを開始しているほか、世界銀行では、83年に「環境ガイドライン」が設定され、援助決定に至るまでの各段階で環境面のチェックが行われてきている。

我が国の経済援助の重点が、いわゆる輸出振興型経済援助から、地球環境保全型の経済支援へ移動した背景には、よって次の要因が考えられる。一つは、国内外のNGO活動の活発化。第二に、貿易黒字の削減という使命が、80年代全般に、日本の外交問題として浮かび上がってきており、この状況のもとで「輸出振興型」の経済援助が存続する余地が限られてきたという背景。第三の要因は、世界的な環境問題への関心の高まりである。

ODA大綱

90年代、特に湾岸戦争勃発以来、日本の海外援助に、日本自らの哲学を示すことの重要性が叫ばれるようになってくる。

これを受ける形で、国会でも援助基本法を策定する動きがあらわれ、それらの声に圧される形で出てきたのが92年6月のODA大綱の閣議決定であった。ここで重要な政策決定要因が二つある。一つが、先に述べたマスコミの圧力と、さらに重要なのが国会の動きである。国会主導で援助基本法を策定する動きが出てきたのが92年の初めであるが、ここで、行政府の「聖域」に立法府の手が入ることを嫌った外務省以下の官庁がまとめたのがODA大綱であるという見方も出来る。最終指針には軍事という観点が盛り込まれたが、これは湾岸戦争後の国内の世論の反映と見て取れる。

はじめに

日本の援助研究における研究分野は大まかに分けて2つ存在する。一つは、援助の内政的側面、もう一つは、その外交的側面である。援助の内政的側面とは、援助総額の決定、個別の援助プロジェクトの選定など、ある意味で日本国政府が国内で行なう補助金交付と同種の決定プロセスであり、またその外向的側面とは、開発途上国に対して行われる公共事業という観点から日本国政府の外交戦略と密接にからむ分野である。

 もちろん、これら二つの側面は、独立して存在し得ない性格のものであり、個々の援助プロジェクトには、必然的に内政的側面と外交的側面双方における調整機能が働いているわけであるが、現存する政策研究の多くは、どちらかというと援助の内政的側面に焦点を当て、その政策決定の要因を、いわゆる四省庁体制という援助システム自体に求める傾向が強い。すなわち、個々の援助政策は、援助システム内の政治力学のもたらした結果であるとする分析である。

しかしながら、実際の援助政策決定に関しては、それが実に様々なレベルの様々な担当者の手をへて検討されるもので、最終決定に影響を与えるアクターも一様ではない。さらには、日本における援助決定プロセスの大部分が関係官庁の手で行われ、立法府の関与する部分が非常に少ないこと。また、あったとしても突発的で限定された小規模無償における関与に過ぎないという事実から、一体誰が援助政策の決定を下すのかという部分は、はっきりと見えない傾向がある。このことが、いわゆる「顔の見えない援助」という、日本のODA批判に繋がっていくわけである。

それでは、援助の内政的側面における「政策決定」と、その「要因」は、いかにして捉えるべきなのであろうか。内政的側面で、おそらく最も政策らしい政策は、予算決定の分野であろう。現状の援助体系の中において、特定の国に対するODA予算額は、大体見当のつく範囲内で推移している。このことは、援助実行機関に対して、来期の案件を絞り込む際の安定した目安を提供するという点で望ましいという見方が存在する一方で、そのことが「援助枠」の固定化をもたらすという欠点も存在する。よって、関係各省庁は中・長期的視野に立って、援助枠の変更を毎年検討し、世銀主催の援助国会合で公表することを常としているが、ここである国や地域に対する援助額を増加、または減少させるという決定は、援助の内政的側面の中で、唯一援助政策に直結する分野であるということが出来よう。

逆に言うと、援助の内政的側面において、いわゆる「政策」と結びつくものは、ほとんど存在しないわけであり、この分野における援助研究は、個々のプロジェクトがどのようにしてリストアップされ、審査され、最終的にプロジェクトとして確立されるかといったプロセスに関するものに限定される。

 援助政策という範疇に属するものは、むしろ援助の外交的側面である。ある国に対する援助を凍結したり、凍結していた援助を再開するといった判断は、我が国の外交政策に直結する問題であり、「我が国の援助政策」といった場合、小規模な援助予算の増額または減額を除けば、大部分がこういった外交政策の一環として採られる援助政策である場合が多い。

従ってこのセクションでは、主に援助の外交的側面に焦点を当て、出来るだけ実際に展開された援助政策に言及しつつ、その中でいかなる決定要因が存在したのかという点を探っていくことにする。具体的には、まず日本の援助政策の重心がどこにおかれてきたのかを歴史的に捉えた後、核実験後に採られたインドに対する援助停止政策、ミャンマー・ヤンゴン空港に対するODA借款の再開という二つの政策について言及し、さらには、援助政策決定に対するマスコミの影響力、NGO、及び財界の関与について取り扱うことにする。最後に、日本のマクロ金融政策の一例として、突発的なアジアの金融危機に対する日本の関与と、その決定要因について触れたい。

我が国の援助政策の歴史的変遷

我が国の援助政策の歴史を振り返るにあたっては、戦後の我が国及び西側諸国の経済状況と、援助機関の整備状況、さらには国連開発の10年構想に沿った諸外国の援助政策の動向に着目しなければならない。以下では、特に日本の援助政策に強い影響力を与えた国際環境の変化に注目つつ、それぞれの時代のアクターを大まかに捉えていきたい。

復興期−賠償と被援助国の時代(45年〜57年)

我が国が援助の分野に足を踏み入れるのは、正式には60年代に入ってからであり、それ以前はどちらかというと輸出振興の一部としての開発投資が行われたに過ぎなかった。しかしながら、援助政策の決定要因という側面からこの問題を捉え直したとき、日本が西側の援助体制の中に組み込まれる背景は、50年代すでに存在していたわけであり、その意味からも、終戦から50年代にかけての国際情勢の推移に着目する必要がある。

 まず、戦後の世界の枠組がアメリカを中心とする資本主義圏とソ連を中心とする社会主義圏の競合という色合いが次第に明確になってきた時代背景のもと、アメリカの占領下にあった我が国もアメリカの強力な援助を受けることになる。特に朝鮮民主主義人民共和国(48年)、中華人民共和国(49年)の誕生により、アメリカは従来の極東戦略を一変。我が国を「共産主義の防壁」(ロイヤル米陸軍長官:当時)と認識するに至り、49年、日本に対する賠償取り立ての凍結を宣言すると同時に、トル−マン・ドクトリンに基づく対日援助を発表することになる。

我が国に対する初期の援助としては、アメリカによる「占領地域救済政府資金」(GARIOA)及び「占領地域経済復興資金」(EROA)、またアメリカ、カナダ、メキシコ、チリ、ブラジル、アルゼンチン、ペル−などの国々から送付された食糧や生活物資(ララ物資)などがあるが、その規模と戦後日本の開発に及ぼした影響から最も重要なのが、53年に受け入れを開始した世界銀行の借款である。日本は、この世界銀行の資金を活用して東海道新幹線、東名高速道路、黒部第四水力発電所(黒四ダム)、愛知用水などの成長基盤を整えていった。

 つまり、この時点で、日本は西側の一員として「登録」されたわけであり、この事が以後の日本の援助政策の枠組みを決定付ける要因となった。

50年代の日本において、援助に絡む外交政策があったとするならば、それは朝鮮戦争後の輸出貿易の落ち込みに対応する輸出振興策と、資源の確保にからむ開発投資に限定されるであろう。50年に勃発した朝鮮戦争による「特需」は、我が国の経済復興に大きく貢献したが、53年に戦争が終了すると、我が国は一転して輸出不振及びそれに伴う外貨不足により輸入原材料の確保に窮することとなり、加工貿易を基本とする我が国にとって、資源の安定的確保と輸出の振興が最重要の課題として浮上してきた。51年にインドに対する鉄鉱石開発投資を皮切に再開された海外投資は、主として資源開発投資という性格を持ち、その後もアジア諸国に対して次々と実施されていった。

一方、輸出振興の面では50年に設立された日本輸出入銀行がプラント輸出を対象とした国内企業への投融資を手がけ、さらに開発途上国の輸入代金を支援する延べ払い金融の開始なども開始するようになり、次第に経済協力的業務をも取り扱うようになっていく。52年のチリに対する機関車輸出は、開発途上国向けの輸出信用供与の第一号となったが、最大の輸出振興策は、実は賠償という枠内で行われていた。

 51年、サンフランシスコ平和条約第14条で確認された賠償は、ラオス、カンボジアなど、請求権を放棄した国を除く4ケ国(ビルマ、フィリピン、インドネシア、旧南ベトナム)に対し、54年のビルマを皮切りに76年まで、合計5千億円の賠償が供される運びとなったが、賠償は、戦後復興期の我が国にとって、かなりの経済的負担を強いた反面、東南アジア向け輸出の振興というプラスの役目をも果たすことになったのである。つまり、かなりの部分「ひも付き」で行われた賠償は、それ自体が日本の輸出を誘発する呼び水になったわけである。ちなみに賠償が本格化した60年、輸出に占める賠償関連資材の比率がフィリピン、インドネシアで2割におよぶなど、賠償は我が国の東南アジア輸出にとって重要な位置を占めることになった。

 もちろん、援助と賠償はその性格が著しく異なるものであり、後者には「政策」の入り込む余地の無いものではあったが、援助の分野で80年代まで積極的に行われた「ひも付き」援助も、基本的発想は戦後の賠償と同じ輸出振興という枠内で十分に説明が付くものである。この事は、例えば日本で最初の援助機関が日本輸出入銀行であったという事実や、日本が援助体制を築き上げるときに中心的な役割を果たしたのが、むしろ通産、大蔵など、直接外交問題を扱う外務省以外の省庁であったという事実が、その性格を如実に物語っている。

援助開始時期(58年〜64年)

50年代後半、アメリカの国際収支が赤字に転落する一方で、初期の経済計画の成功に気をよくしていたソ連は、東欧諸国とともに開発途上諸国に対する援助を開始する。これらの援助は、長期、低利の借款に重点をおき、アメリカの援助に比べて途上国に有利なこともあって、共産圏の拡大という政治的効果を発揮しつつあった。しかもソ連を中心とする共産圏の援助活動が、インド、エジプト、キューバ等、国際政治上の戦略拠点を対象としていたことは、共産圏の「封じ込め」を国際政治の基礎とする冷戦期のアメリカにとって大きな問題だった。

 しかし、58年頃から国際収支が赤字に転落していたアメリカは、独力でこの競争を支える力はなく、60年に英、仏、西独、カナダ、イタリア、日本等とともに開発援助グループ(DAG)(翌61年DAC(開発援助委員会)に改称。日本は63年参加)を設立し、自由主義先進国全体で援助活動を押し進める体制を整えることとなった。

 57年、アメリカは開発借款基金を設立して開発途上国に対する開発借款を始めるとともに、世界銀行を開発途上国援助の面で補完するため、56年に開発途上国の私企業育成のための国際金融公社(IFC)を、続いて60年には世界銀行内に融資条件をより緩和した援助機間である国際開発協会(IDA)を設立し、DACと共に、西側の援助体制を整え始めることになる。つまり、我が国の援助の主翼を担うことになる政府直接借款(円借款)が開始されることになった裏には、こういった国際情勢の変化が著しく影響していたわけである。

円借款の幕開けと援助システムの確立

 我が国の円借款は58年にインド向けの電力設備、船舶及びプラント設備を対象として始まり、その後、パラグアイ、南ベトナム、パキスタン、ブラジルへと拡大していくが、この間円借款は日本輸出入銀行が担当していた。

57年、当時の岸首相は、ワシントンでの日米首脳会談でアメリカの資本、日本の技術、東南アジアの資源を活用して東南アジアの開発を進めるための「東南アジア開発基金」の設立を提案し、国内的には輸出入銀行の中に「東南アジア開発協力基金」を設置する措置を提案したが、アメリカ側は57年、「開発借款基金」(DLF、後のUSAID)を設立、フランス、西ドイツ等も独自に開発途上国への協力体制を整えることになったため、国際機関としての「東南アジア開発基金」構想は頓挫することになる。

しかしながら、当時、経済協力の拡大が至上命題となっていたわが国では、59年、自民党が対外経済協力特別委員会を設け、東南アジア開発基金に代わる「対外経済特別基金」の設立を呼びかけた。一方、外務省は同じ年に、「経済協力基金構想」を発表。通産省も同時に「海外経済協力株式会社案」を作成した。これらの構想は各省庁、政界の調整、国会の審議を経て、翌60年末に海外経済協力基金法として公布されることになったが、この間、各省庁間の調整の過程で、最終的に経済企画庁が監督官庁、外務、大蔵、通産の3省が協議官庁となる、現在の円借款の4省庁体制が確立したわけである。

 技術協力の分野では50年、セイロン(現在のスリランカ)のコロンボで開かれた英連邦外相会議で、南アジア及び東南アジアの経済・社会開発を促進することを目的にコロンボプランが発足。日本は54年10月6日、これに加盟し、開発途上国への技術協力を開始することになった。

 コロンボプラン加盟と同年の54年、わが国は南洋協会、アジア経済協力会、アジア産業協力会等の6つの団体を統合して、アジア協会を設立し、技術協力事業を統括する動きが始まっていたが、62年、「海外技術協力事業団」(OTCA、後のJICA)の開設によって、技術協力部門での政府による一元化に成功。他方、同様な資金協力諸団体を統合して経済援助部門での一元化に成功したのが61年に設立された海外協力基金(OECF)であった。

 ここでわかることは、日本の援助政策が決定された当初には、国内外に複数のファクターが存在したという事実である。つまり、対外的には(1)従来一国で西側の戦略援助を請け負ってきたアメリカ側の経済状態の悪化、(2)それによって増大した西側工業国に対する責務分担圧力、(3)DACへの編入と、日本に対する援助拡大要求、以上の三点であり、対内的には(1)「東南アジア開発基金」及び「対外経済特別基金」構想を提案した岸首相及び自民党の対外経済協力特別委員会、(2)「経済協力基金構想」を発表した外務省、(3)「海外経済協力株式会社案」を掲げた通産省、(4)日本初の援助機関として50年に設立された日本輸出入銀行を抱える大蔵省、そして(5)技術協力、経済協力それぞれの分野で多元的に存在した諸機関である。これらの国外、国内の様々なアクターによって、現在の日本の援助システムが形成されていったことになる。また、これら日本の援助政策に関わる内的なアクターは、現在まで基本的に変化が無いと言ってよい。

初期の援助政策決定要因

 60年代から80年代全般にかけて、日本の援助政策は、常に外の圧力に敏感に反応した結果であるという見方が出来る。国連開発の10年構想に始まる西側先進諸国の援助体制の中に組み込まれた日本は、特にオイルショック以後の世界経済の構造的変化に対応すべく対応を迫られることになるが、具体的にどのような外的要因が存在したのは、以下に見ていくことにする。

 60年代は、先進国と開発途上国の経済格差是正問題、いわゆる南北問題が、米ソ冷戦構造を軸とする東西の対立と複雑に絡み合って展開していく。まず61年の国連総会で、アメリカのケネディ大統領の提案による「国連開発の10年」が開始されたのを皮切りに、64年には開発途上国の貿易や開発の諸問題を討議するための国連貿易開発会議(UNCTAD)がジュネーブに設置される。 64年のUNCTAD第1回総会では、後に非同盟中立運動を始めることになる開発途上国により「77ケ国グループ」が結成され、先進諸国に対する一種の圧力団体としての機能を果たすようになった。さらに68年の第2回総会では、世界的開発戦略の必要性が強調され、貿易問題とともに先進国の援助額をGNPの1%とすることが話合われた。つまり、南北の経済格差という名目のもと、先進工業国が経済援助を通じて開発途上国との関係強化を目指し、また開発途上国自体も先進諸国の経済支援を要求するという世界的風潮が出てきたのが60年代ということである。

 これら南北問題の議論に対して、日本は第1回総会以降、援助の国民所得1%目標や途上国への特恵関税等に対して消極的な態度をとってきたが、戦後一貫して赤字を続けていた貿易収支が黒字に転じ、その後国際収支の黒字基調が定着する65年を境に、援助のGNPの1%を公言するなどの積極姿勢に転身。順調な経済を背景に経済協力を拡大していくことになる。

 60年代の前半に海外経済協力基金(OECF)と海外技術協力事業団(OTCA)を両輪とする経済技術協力の国内体制を確立した我が国は、63年にはOECDの先進国クラブである開発援助委員会(DAC)に加盟、65年には世界銀行の被援助国から卒業し、本格的に援助受け入れ国から援助供与国に転換していく。同年には日韓国交正常化の一環として、韓国に対し無償3億ドル、有償2億ドル、民間借款3億ドル、計8億ドル以上の経済協力を手がけ、また同国に対する鉄道設備改良事業は、OECFの円借款事業第一号となった。つまり、南北問題解消のための経済協力という世界的風潮と、日本の経済成長という二つのファクターが60年代の日本の経済援助政策決定の要因となっており、日本の実質的な経済協力が始まったのが、日本の貿易収支が黒字に転じた65年からであるという事実が、それを物語っている。

さて、先進国クラブの仲間入りを果たし、当時その「会費」として位置づけられていた経済援助への積極的参加が外交上の使命となった日本はその後、先進諸国の支援システムに呼応するように内部のシステムの充実を図っていくようになる。67年、GATTケネディラウンドにおいて途上国の食糧不足緩和のための食糧援助規約が成立。いわゆるケネディー・ラウンド援助(KR援助)が、先進諸国による新規の支援メニューに上るが、日本も翌68年にKR援助を開始。76年には肥料、農機具、農薬等を供与する食糧増産援助(第2KR援助)を加え、無償資金協力を拡大していく。こうして、現在のODAの3本柱である有償資金協力(円借款)、技術協力、無償資金協力が出揃ったわけである。

さらに、多国間援助の分野では、66年、マニラに本部を置くアジア開発銀行(ADB)が設立されるが、日本はアメリカと並ぶ最大の拠出国としてその運営に積極的に協力していくこととなる。しかしこの様な我が国の東南アジア援助における積極姿勢も、当時ベトナム戦争への介入をエスカレートさせていたアメリカの肩代わりという要因があったということも見逃してはならない。その一方で、日本の対東南アジア援助は、賠償時と同様、「輸出振興」という裏の目的があったことも指摘しておかなければならない。 ここで注目に値するのが、食糧増産援助が開始された76年、日本はフィリピンへの支払をもって賠償を終了していることである。つまり、KR援助及び食料増産援助を含む無償資金協力は、その初期において、明らかに賠償のシステムを踏襲しており、無償資金協力の実行機関も、実態は賠償に絡む諸団体が中心となっていたという点である。

ちなみに技術協力面で、機構の刷新が図られたのもこのころで、当時、海外貿易開発協会(通産省所管)や海外農業開発財団(農林省所管)を母体に独自の技術協力を進めようとしていた通産、農林両省と、ODAの重要な柱である技術協力の一元化を図ろうとする外務省との間で様々な折衝が重ねられていた。結果、74年、海外技術協力事業団と海外移住事業団が合併して国際協力事業団(JICA)が発足することになったわけだが、技術協力の一元化における過程においても、「海外輸出振興」の一形態としての賠償をサポートしたシステムが、かなりの程度残されたという点が、80年代の、主にマスコミによる避難の的として浮かび上がってくるわけである。

60年代の日本の援助政策が、すべて外的圧力を反映したものに過ぎないとする見方は、ある意味で不十分な議論であろう。実際64年に発足した佐藤政権は、65年に台湾との間で経済協力協定を、同じく韓国との間で経済協力協定を締結し、経済協力を梃としたアジア外交を推進したわけであるが、全体から見ると、やはり我が国の初期の援助政策は、援助を基軸とする世界システムを構築するという理想論を掲げた周囲の流れに沿って決定されたものであることは確かだといえよう。

70年代の変革

 国際援助の舞台でわが国に対する需要が高まりだしたのが70年代である。70年に「第2次国連開発の10年」がスタートしたが、アメリカを始め西欧先進国の援助姿勢は軒並み後退しており、世界は黒字を貯め込む我が国に援助の増額を求め出した。これに応え、我が国は71年、ODAのGNP比率の引き上げ、援助のアンタイ化(ひもつき援助の削減)等からなる対策を総合的対外経済政策の中で打ち出した。つまり、60年代に引き続き、日本の経済援助政策は、黒字還流と円の切り上げを要求する外圧の中で決定されていったということが出来よう。

70年代は3度の「ショック」に代表される変革の次期であった。まず71年、アメリカの採った新経済政策(ニクソン・ショック)によってブレトン・ウッズ体制の一角が崩れ、金・ドル交換停止、フロー制への移行という新たな通貨体制が出現する。73年には第4次中東戦争時に石油輸出国機構(OPEC)によって行われた原油価格の4倍引き上げ政策、いわゆる第一次オイルショックによって先進国の経済が麻痺。さらには、79年に、イラン革命に端を発する第2次オイルショックが開発途上国間の格差を更に拡大し、いわゆる南南問題を拡大していった。

さらには、一次産品を生産する他の開発途上国も同様に輸出国カルテルを結成する動きが見られた一方で、オイルショックは経済的に最も弱い、非産油開発途上国をも直撃した。先進国は、石油危機により累積赤字を急増させていた非産油開発途上国を救済するため、債権者の非公式グループ(パリクラブ)により一連の債務繰り延べ措置を講じるなどの措置を行なうが、結局は焼け石に水で、石油などの資源を持つ国と持たない国といった分極化が南の開発途上国の間に生じ、南北問題の性格がさらに複雑化していくことになる。

こうした2度にわたる石油危機により、先進諸国を初めとして世界経済全体が打撃を受けたなかで、日本は石油危機を克服し順調な経済運営を見せていた。こうした状況から、援助の面でも我が国に対するさらなる役割分担が期待されるようになる。そして、この様な外部の期待に応える形で、日本の援助額の大幅増額及び援助の質の向上が図られるようになっていった。77年に策定されたわが国初めてのODA中期計画には、3年間でODA実績を倍増する計画が盛り込まれ、以後第2次中期計画(81年−85年)、第3次中期計画(86年−92年)、さらに98年まで続く第5次中期目標のもとでも、ODA予算の増額が達成されたわけである。

冷戦後の援助政策

80年代の援助政策決定要因には、以前とは違った要因が見え隠れするようになる。第一に、世界のトップドナーとなった日本のODAに対し、その質の面での変革を要求する声が、国内外のマスコミ、NGOなどによって上がるようになったこと。第二に、特に湾岸戦争以後、日本の外交姿勢の欠如を指摘する声が国内から上がり、いわゆる援助の外交的側面をより明確にする必要性が出てきたことである。

第一の、援助の質の問題に関して言えば、日本の援助政策に対する批判として80年代に出てきたものの一つが、日本のODAが商業主義的援助であり、開発途上国の発展という目的から逸脱した自己中心的なもというものであるという指摘であった。そして日本内外でのこうした批判が注目した点がいわゆる「ひも付き援助(タイド)援助」であった。日本政府は、これらに批判に応える形で、特に有償援助のアンタイ化を推し進め、80年代後半には「タイド」援助の割合は急激に縮小。現在では先進国最低水準にまで下がっている。93年の統計によると、今や日本の円借款のほとんど(96.9%)が「アンタイド」援助であり、しかも、そのほとんどが「一般アンタイド」と呼ばれる、調達先を全く特定しないオープンな援助形態である。無償援助を含めた全体で見ても83.9%がすでに「ひもなし」援助化されているのが現状である。

日本の援助が商業主義的であるという批判の、もう一つの根拠が、日本のODAの「アンタイド」率がいくら高くても、実際の案件作成には日本の企業が深く絡んでいる場合が多く、結果として「アンタイド」率の高低に関係なく実際の受注には日本企業が有利に働く場合が多い。つまり、日本のアンタイド援助は、実質的な「ひもつき」援助であるというものである。実際、80年代半ばには、日本企業の受注率が70%近くもあり、「実質的なひもつき援助」という批判は、統計的には的を得たものだった。しかしながら、「援助の質の向上」に取り組む政府の努力の結果、日本企業の受注率も、93年には29%にまで低下しているのが実状である。

 この様な急激な援助政策の変更を可能にした、もう一つの要因は、特にプラザ合意以降に顕著になる日本の「黒字減らし」に対する圧力であった。貿易不均衡に対する批判のなかで、輸出振興型の経済援助を推し進めて行くという選択肢は、とりたくてもとれないものとして事実上消滅しているのが現状である。さらには、80年代になると開発途上国への資金の流れの大部分は民間資本によるものとなり、ODAの比率は、PFを含めた資金フロー全体の4割に満たないという状況が出てくる。こうなると、有力な企業は、受注率の低い援助に期待するよりも、その時間を自社のプロジェクトに傾けた方が効率が上がるという観点から、援助に関係する部署の規模は縮小傾向に向かった。つまり、80年代後半から90年代にかけて、援助の目的は、「輸出振興策の一部」という従来の位置づけからかなり遠ざかっていることは確かである。

ここで出てくるのが地球的規模の問題への取り組みと、援助の外交的側面の重視という2つの新しい課題であった。

地球的規模の問題への取り組み

90年代にはいると、日本の内外から寄せられるODA批判の大半は、日本の開発援助が、結果的に援助される側の環境の破壊につながるものであるという論旨が基調になってくる。なかには日本の援助イコール環境破壊援助であるというような、感情的な議論もあるが、実際、日本に限らず、先進国の開発援助が、得てして環境の破壊につながり、公害や自然破壊を巻き起こしてきた事実は無いとは言えない。これは、自然環境の分野のみならず、社会的、人的環境についてもいえることである。 援助が、その政治的、経済的要因にのみに気を取られて、実際は現地の住民の利益にならない種類のものであるならば、そういった援助はする意味がないという意見は、主にNGO諸団体が、現地調査に基づいて行っているもので、そのレポートの質も、一時の感情論を超えてより正確なものになってきている。日本政府も、ODAによる環境破壊については非常に神経質になっており、1990年以降は、ODAの一部に1、000億円の「地球環境問題対策費」を盛り込んだことや、92年度から5年間で9千億から1兆円の環境関連ODAを実施することを決定したのも、この様な環境問題に対する意識の高まりととることが出来る。  現在では、援助の実行機関である国際協力事業団(JICA)及び海外経済協力基金(OECF)が、「環境配慮のためのガイドライン」を設定して独自の環境モニタリングを開始しているほか、世界銀行では、83年に「環境ガイドライン」が設定され、援助決定に至るまでの各段階で環境面のチェックが行われてきている。つまり、現時点では二国間援助及び多国間援助の両面で環境面に関するチェック機能が確立されている。

 この政策変更の要因には、世界的に高まる環境問題への関心という背景がある。環境問題が「地球的規模の問題」として認識されるようになってきたのは70年代に入ってからである。72年にローマクラブが出した提言書「成長の限界」で「地球の定員」が議論され、同年、スウェ−デンのストックホルムで開催された「国連人間環境会議」で、「宇宙船地球号」という概念が提起された頃から、地球規模の環境問題が、世界全体が取り組むべき課題として位置づけられてきたわけである。しかしこの時期、先進国では経済成長一辺倒から環境保全の重要性が徐々に認識され始めていた一方で、途上国ではまだまだ開発が至上命題で環境配慮は贅沢なものという認識と、地球環境の悪化に専ら責任があるのは先進国であるという意識があり、経済成長を犠牲にしてまで環境保全をというコンセンサスは得られなかった。

 しかし、80年にアメリカ政府特別調査報告「2000年の地球」が出された頃から、「地球全体の問題」としての環境問題に対する意識が高まり、地球環境を扱う国際会議が次々と開かれる様になった。日本政府も、84年のナイロビ国連環境特別委員会において、「環境と開発に関する世界委員会」を主導。その報告書「われら共通の未来」(87年)は、従来対立する概念としてとらえられていた成長と環境に対し、「持続可能な開発」という概念を示した。

 これらの流れを受けて、92年にブラジルのリオデジャネイロで開催された「国連環境開発会議」(UNCED)では、21世紀に向けての環境に関する行動計画である「アジェンダ21」、「森林に関する原則声明」、「生物多様性条約」などへの署名がなされるなど一定の成果を上げたが、環境保全にかかる経費−地球を守るためのお金−を誰がどのようにして負担するかという問題を完全に解決することはできなかった。この点で、今後我が国の環境ODAに対する責任及び世界からの期待はますます大きくなっている。

こうした背景のもと、我が国は、89年から91年までの3年間に3、000億円を環境分野のODAに充当するとの国際公約を着実に達成すると共に、92年からは、向こう5年間で9、000億円から1兆円をめどに環境ODAを拡充するという計画を実行した。環境問題は、今や我が国ODAの最も重要な課題の一つとなっているといった感がある。

我が国の経済援助の重点が、いわゆる輸出振興型経済援助から、地球環境保全型の経済支援へ移動した背景には、よって次の要因が考えられる。一つは、国内外のNGOの活動が活発化し、我が国のODAに対する第三者の評価を下しはじめたことである。特に、ブラジル熱帯雨林の大カラジャス計画、インドのナルマダ峡谷ダム建設計画、インドネシアのクドゥン・オンボダム建設計画その他、日本のODA事業が、全く地域住民の役に立っていないとする強硬な反対意見の盛り上がりは、関係省庁に経済援助計画の見直しを迫った。その結果、90年代からはJICAの国別援助検討会などのように、地域の実態と援助の可否、より効果的な援助のための助言などを、民間の専門家がまとめるという機会が増加。また、すでに支援済みの案件が、実際現地に有益であったか否かを、民間の立場から評価する「第三者評価」という仕組みが出来上がったことは、「民間の意見を政策決定過程に加える」という新しい試みであり、これは、日本の援助政策に対する民間団体の影響力が増大した結果であるという見方が出来る。

第二に、貿易黒字の削減という使命が、80年代全般に、日本の外交問題として浮かび上がってきており、この状況のもとで「輸出振興型」の経済援助が存続する余地が無かったという点である。実際、70年代までの日本の経済援助は、受け入れ国のための経済支援という観点と、自国の産業保護という観点とが並立しており、後者は80年代に入ってからも、主に無償資金援助の分野において生き続けてきた。しかしながら、度重なる外圧のもと、あからさまに自国の産業を保護する政策は取れないというのが実状であった。簡単に言うと、賠償以来続いてきた過去のしがらみをどうやって穏便につないでいくかという課題が、80年代の政策決定に大きな影響を及ぼしていたわけであり、いわゆる「アンタイ化」の道のりは、こうした事情の下でやりくりせざるを得なかった日本政府の苦労の産物ともいえる。

第三の要因は、世界的な環境問題への関心の高まりである。特に80年代の環境問題に対する世界的盛り上がりは、92年のリオ・サミットで最高潮に達し、数々の宣言が出されたが、その実行をどうするかに関しては、世界的経済停滞のあおりをうけ、リーダーシップを取る国が少なく、結果、日本に対する期待が高まったわけである。この事が、貿易黒字の還元を至上命令とする日本政府の意図と合致したという展開である。

ODA大綱

90年代に入ると、別の意味で経済援助に対する期待が高まってくる。我が国の援助は、従来から開発途上国の貧困・飢饉などに対する人道的な配慮、および開発途上国の経済発展と安定が世界の平和と繁栄にとって不可欠であるとの相互依存の考え方にもとづき行われてきた。つまり、経済援助の問題は、その予算編成、プロジェクト施行の形態などからして、どちらかというと国内問題だったわけである。しかしながら、91年以来数年間世界最高拠出額を継続する日本の海外援助に、日本自らの哲学を示すことの重要性が叫ばれるようになってくる。そして、これは湾岸戦争勃発以来、抜きさしならない重要性をもつようになった。簡単に言うと、120億ドルも払ったのに、何の感謝もされないのなぜか、また、国民の税金でサダム・フセインという独裁者を育てる手助けをしたのはなぜかといった議論がマスコミの紙面をにぎわせるようになったのである。このことが、「日本はアメリカの金庫ではない」「ただ金を出すのではなく、援助理念を持て」「金を出すなら口も出せ」といった議論に結びついていったわけである。

これを受ける形で、国会でも援助基本法を策定する動きがあらわれ、それらの声に圧される形で出てきたのが92年6月のODA大綱の閣議決定であった。ここで重要な政策決定要因が二つある。一つが、先に述べたマスコミの圧力と、さらに重要なのが国会の動きである。国会主導で援助基本法を策定する動きが出てきたのが92年の初めであるが、ここで、行政府の「聖域」に立法府の手が入ることを嫌った外務省以下の官庁がまとめたのがODA大綱であるという見方も出来る。経済援助の分野は賠償時代以来、立法府の影響を一度も受けた事のない、完全行政府主導型の分野として、非常にユニークな存在だった。よって、関係官庁が、その「聖域」を死守するためには、国会で援助基本法が成立する前に、独自の援助方針を明確に打ち出す必要性があったわけである。さらに、イラクに対する支援が、侵略を招いたとする当時の状況に合わせて、最終指針には軍事という観点を盛り込む内容となった。結局、途上国援助の原則として掲げられた4つの条件のうちの二つが「援助の軍事的用途及び国際紛争助長への使用回避」と、「開発途上国の軍事支出、大量破壊兵器、ミサイルの開発・製造、武器輸出入等の動向への十分な注意」という軍事面への配慮が盛り込まれたことに、湾岸戦争後の国内の世論の反映が見て取れるわけである。

さらに、ODA大綱は、我が国が、我が国の外交の手段としてODAを使うことを明確に表明したという側面をもっており、これからはODAの動きが特定の国に対する我が国の政策を示す重要なシグナルとなるのみならず、ODA政策が、まさに日本の外交政策と直結するための、重要な土台を提供した事になるわけである。

まとめ

戦後の賠償に始まる日本の援助は50年代、賠償を仲立ちとした輸出促進政策に向けられ、またその時に構成された援助形態が、日本が本格的支援を開始する60年代にそのまま受け継がれていった。70年代には世界的な援助疲れが見え始め、「黒字減らし」を要求する先進諸国の圧力に応える形で日本の経済援助の予算額が急激に膨らんでいく。しかしながら、80年代にはマスコミ、NGOなどの独自の調査活動により援助の矛盾が指摘され、援助の質の問題が議題に上がるようになる。さらに、この時期日本の「貿易黒字還元」を訴える諸外国の声が更に高まり、その中で、従来型の「輸出産業支援型」の経済援助は影を潜め、援助の「ひも付き率」及び日本企業の受注率双方ともにダウン。また、マネー・フロー全体に占めるPFの割合が80年代に急速に伸び、経済援助の総額とは比較にならないほどの大きなパイを占めるという状況のもと、現在では日本のODAが日本の私企業にとってほとんど魅力の無いものになってきた。さらには、世界的な地球環境問題に対する関心の高まりとともに、日本の経済援助の方向性が修正されることになる。

日本の経済援助の歴史の中で、援助の外交的側面が表面化したのは、実は最近の事である。特に不発に終わった湾岸戦争に対する支援がマスコミの議論に火を付け、援助の理念を明確化すべきであるとする動きが活発化する。特に立法府の援助基本法制定の動きに「聖域」への介入の危機感を覚えた行政府は、ODA大綱の中で、日本の経済援助政策に対する指針を明示することになった。 以下の章では、日本の経済援助の外交的側面が、実際に政策としてあらわれた実例を挙げ、それぞれの決定要因をより具体的に見ていくことにする。