| 「外交政策決定要因」5カ国国際会議 |
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吉崎達彦
日商岩井株式会社
要旨
金融システムの危機を描いた近未来小説、「三本の矢」がベストセラーになっている。この小説は、大蔵官僚が仕掛けた金融改革のためのクーデターが、三本の矢――政・官・財の既得権勢力の結束の前に敗れ去る過程を描いている。ことわざ通り、一本の矢は弱くともまとまった三本の矢は容易に折れないと同書は結論する。しかし日本の「政・官・財=鉄のトライアングル」は、一般に考えられているほど強固なものではない。とくに1993年夏の細川政権誕生により、いわゆる55年体制が崩壊して以後のトライアングルは、揺れ動き続けてきたといっていい。この結果、日本の政策決定過程も従来に比べて大きな変容を遂げた。
この影響をまともに受けたのが対米外交政策である。1993年7月から94年9月にかけて行われた日米包括協議は、過去の日米経済摩擦の方程式を大きく逸脱するものとなった。日本の経常黒字の増大に対し、米国は黒字削減の数値目標を要求。日本はこれが管理貿易につながるものとして拒絶した。その結果、94年2月には日米首脳会談が決裂して、再開の目処が立たないという局面さえ招いた。包括協議がこれほど特異なケースとなったのは、日米の政策決定過程の両方に理由があるが、日本においては政官財トライアングルが機能不全状態にあったことが最大の原因である。
日米包括協議は前半と後半に分けて考えるとわかりやすい。包括協議の発足から94年2月の首脳会談までの前半を「疾風怒涛の時代」、その後の冷却期間から妥結までの後半を「平常への回帰の時代」と呼ぶことにしよう。
前半の「疾風怒涛の時代」は、細川政権という非自民政権の誕生により、トライアングルが根本的な関係の再編を求められた時期に当たる。この時期、政治的基盤が不安定な「政」に対して、政策課題の着実な処理を目指した「官」と,長年の懸案である改革推進を期待した「財」は,それぞれに影響力を競い合った。対米関係においても、日米半導体交渉以来の不信感を持つ「官」と、米国の対日要求にある程度の理解を持ち、しかも交渉が失敗すれば円高が進んで被害を受けるという「財」の間では、大きなへだたりがあった。この競争は最終的に「官」の勝利に終わる。「脱官僚」を標榜していた細川政権は、当時の山積する課題に取り組むうちに官僚依存体質となっていた。こうしたなか、時間にも追われた細川首相は、政官財のコンセンサスがないままで日米首脳会談を迎えることになった。決裂という結果はある程度必然的だったといっていい。
包括協議の後半、「平常への回帰の時代」は、トライアングルが以前の安定した関係に回帰するようになる時期に当たる。とくに94年6月に村山連立政権が発足すると、自民党が与党に復帰したことで、「官」や「財」とのあつれきはたびたび生じたが、全体としては関係修復が進んだ。こうしたなかで、「政」や「財」は対米関係に対する熱意を失ってゆき、包括協議は「官」主導の体制となる。そのため両国間の議論は、数値目標をめぐる抽象的な神学論争や、細かなセクター別交渉に終始することになった。交渉は94年9月末に妥結するが、日米ともに不満と不信の残る結果となった。
包括協議が終了したのは、ちょうど翌年発足するWTOの人事が進み、APECボゴール会議が行われるなど、新しい多国間の貿易交渉の枠組みが浮上した時期であった。こういう状況にあって、世界最大の経済大国である日米が二国間協議を行っていることは、いかにも時代遅れに感じられた。日米双方が交渉推進のモメンタムを失ったのは、ある意味で望ましいことだったといえる。実際、包括協議は日本の経常黒字削減について本質的な解決をもたらさなかった。3年後の1996年度には、日本の経常黒字はGDP比2%を切るほどに縮小したが、黒字減らしを実現したのはもっぱら為替による調整メカニズムであった。
しかし包括協議はいくつかの種子を残した。米国側には、日本は本当に変わるのかという不信が残った。日本側は、冷戦は終わってもう米国に甘えられないという自覚とともに、対米交渉においては「広報」と「EUの支持」が重要であるという教訓を得た。これらの要素は、翌年の日米自動車協議に引き継がれてゆくのである。